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津軽の野づら

先日、車窓からだったけど、初めて目にした『津軽の野づら』を見て、是非読みたかった本が深田久弥の『津軽の野づら』
ここの図書館になくて、他の図書館から借り、届いたと連絡があったのがちょん子たちの所へ出かける前。
取りに行けないまま上京し、帰宅後数日してから借りに行きました。
津軽の野づら_c0024861_22422842.jpg
文庫本で字が細かく、旧かなづかいの本はかなり読みづらく数十ページを読み頓挫。
返却期限は本日31日だったので、昨日から空き時間を読書に充てるも、土日の閉館時間を調べたら5時となっていました。
その時間までには読了出来ないと、図書館に「かくかくしかじか・・・で」と、明朝の返却の了解をお願いしたら了承してもらい、夕食の片付けが済んだ後今まで。
簡単に書いたら、津軽に暮らす普通の幸福とは少し離れた若者たちが、津軽の野づらの中で幸福を作り上げて行く様子が書かれています。
この作品が書かれたのが1935年、私が生まれる14年前ですが、随所に懐かしく感じる風景や昔の日々の営みを思いおこし、さらに津軽弁の表現がうまいなぁ・・・と、思いつつ、最初の妻が北畠八穂だったので、色々確認しながら書いたんだろうなと思ったら、wikiの北畠八穂に

八穂は文才豊かだったが、標準語で文章を書くことに困難があり、また自分が寝たきりであることに関して深田に負い目があったため、夫を蔭から支える形で深田に自らの原稿を提供した。それらの原稿に基づき、深田は『あすならう』『オロッコの娘』『津軽の野づら』『贋修道院』『鎌倉夫人』などの小説を発表し、新人作家として注目を浴びた。

とありました。
確かに北畠八穂が書いたとすれば納得の箇所がたくさんありました。
それだけ、津軽の景色やその土地に住んだ人でなければ知りえない食べもの、風習、当時のねぶたの様子、そして一番は『津軽の野づら』への愛情と誇りを感じる本だと思いました。

北畠八穂の名前、ずっと昔祖母から聞いていたけど、私は読んだことがありませんでした。
「おばあさんは何の本を読んだの?」

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この中で共感を覚えた『母』の章。
津軽の野づら_c0024861_23152180.jpg
主人公の志乃が母を亡くした後に感じた母への想い。
子どもの頃、母に少し手伝うよう言われても母さんだけで間に合うからと手伝わなかったこと。

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「それでも手伝うものだエ」志乃は手伝わなかった。今、あんまり忙しい時、
「母さん手伝ってね」と死んだ母に呼びかける。母は自分の生きていた時はこうしたこうしたと順序を教えて仕事を捗らせてくれるようだ。
「有難う、母さん」もとは手づからしてくれても礼は言わなかった。「堪忍ね」といま志乃は言う。
「嘘は言うなよ、母さんには皆わかるから」幼い時は本当だと思い、だんだんたかをくくり、今またこの言葉を本当に思うようになった。
なくなった母は志乃が眠ればいつもそばに居る。
 
=旧仮名遣い一部訂正=

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「手伝って!」と母には言わないけど、「こんな時はどうする?」「あっ、そうすればいいんだ。」
問いかけたり教えられたり、そして、今尚育ててもらっていると思う私。

読了し、作者はどうあれ、『津軽の野づら』から生まれ出た人たち、土地が生み出す人っているんだと思いました。
明日安心して返却出来る気分。
by koro49 | 2009-10-31 23:39 |
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